死と愛の意味

 寒さが一層厳しくなってきましたが、皆様お変わりはないでしょうか?

新型コロナウィルス感染拡大の収束が未だ見通せない社会情勢ですが、今年は静かな年末年始になりそうですね。

さて今日は、ヴィクトール.E.フランクルの「死と愛」という書籍について書いていきたいと思います。既に読んで知っている方も多いと思います。V.E.フランクルは有名な精神医学者で、アウシュビッツ収容所から生きて帰ってきた方でもあります。残念ながら奥様はアウシュビッツ収容所で亡くなられています。アウシュビッツ収容所はかつて第二次世界大戦時に、何の罪もないユダヤ人を監禁し、ユダヤ人というだけの理由で大量に虐殺したことで知られています。これは「アンネの日記」でも有名になりました。

この本はそのアウシュビッツ収容所を体験したあとに書かれたものになります。その内容を少し紹介していきたいと思います。

 

「人間の内的歴史においては、悲哀と悔恨はその意味を持っているのである。われわれが愛し、そして失った一人の人間を悲しみむ

ことは、彼を何らかの形で生き続けさせるのである。すなわち、経験的時間においては、失われていったわれわれの愛ないし悲哀の対象は主観的には、内的時間においては、保存されているのである。」

つまり亡くした人の存在は、悲しみむという行為によってその存在を思い出し、生き続けるのだと言っています。

子どもを亡くすことの悲しみは、消し去ることはできません。生きている限り続いていくと思います。その悲しみが亡くした子供を忘れさせないでいるのだと、フランクルは言っているのでしょう。

またフランクルは、アウシュビッツ収容所で過ごした人の手記をこう書いています。

「私は、母に対して生命を維持する義務があった。私は天と契約を結んだのである。私の死は、私の母に生きながらえることを贈るのであった。そして私が私の死まで、苦悩を耐え忍べば忍ぶほど、私の母は苦しみのない死を迎えられることができるのである。しかし、私は母自身がまだ生きているかどうか知らなかったのである。我々は長い間何の便りもできずに暮らしていたのである。」

この手記をフランクルはこう分析しています。

「身体的現存の問題は少しも彼を妨げなかったのである。ゆえに愛はこれほど根本的に人間の本質を指向するのものであって、身体的現存がほとんど問題にならない程なのである。愛は、愛する者の身体性をほとんど問題とせずその死を超えて続き、自己自身の死まで続きうるのである。」

フランクルは、愛する人の姿形が無くとも、愛する気持ちは永遠に続くと言っています。例え愛する人が既に亡くなっていたとしても、自分に死が訪れるまでその人への愛は続いていくのでしょう。それは、目にすることが出来ない姿となっても、愛という形で永遠に存在していくものなのです。

 sanaの会に参加されたお母様方は、時間がたつにつれて亡くした子どもの好きだったものや声を忘れていきそうで怖い、とおしゃいます。でも、愛しているという心は、いつか自分自身がこの世からいなくなる時まで持ち続けることができるのですね。

 私の亡くなった祖母は、2歳の娘を病気で亡くしています。祖母は90歳を過ぎて天寿を全うしましたが、最後まで折に触れ亡くした娘の話をしていました。強い喪失感というよりは、戦争で食べ物が無い時代に何もしてあげられなかったことへの強い悔恨と、罪悪感があったように思います。祖母は一昔前の人間ですから何かとご先祖様を敬うことが好きでした。しかし今思えば、ご先祖様と言いながら亡くした娘を思い、折々の行事を続けていたのかもしれません。娘を愛する気持ちを、亡くなるその時まで持ち続けていたのでしょう。例え姿形はなくとも、声が聞こえなくても、心の中で愛する気持ちは途絶えることはないのだと思います。

                       

                          つくば国際大学  塙 恵子