皆様こんにちは。
暑い日が続いていますね。私はようやく2回目の新型コロナウィルスワクチン接種が終了し一息ついた心持でおります。
しかし、油断は禁物ですね。マスク手洗いはまだまだ続いていきます。
さて、今回は新たに立ち上げた「エンゼルクラス」について少し補足して書いていきたいと思います。
これは私がまだ看護学生だった頃のお話です。かれこれ30年以上前になりますか。
母性看護学実習で、母性看護学実習とはお産の方々や新生児のケアを主に行う実習です。ある産後のお母様に出会いました。
その方は、分娩直後にお子様を亡くされた方でした。まだグリーフケアという言葉さえ知らない時代でした。誰もが皆同じように、亡くなったお子様の話には触れませんでした。まるでその子は、初めから存在していなかったかのように、誰一人子どもの話はしませんでした。「子ども」という文言までもそのお母様の前ではタブーでした。そのお母様は、ご家族の希望で、自分の亡くなった子どもの葬儀に参列させてもらえない状況でした。産後の肥立ちが悪くなるという理由で、或いは亡くなった子どもを思い出させるからという理由で葬儀に参列することができませんでした。
その当時は、このような方が自分の子どもの葬儀に参列できないことなど決して珍しいことではありませんでした。
ある時その方は、学生の私に葬儀の時に着せてあげたいと言って、手作りの着物を見せてくれました。「本当はお葬式に行ってあげたいんだけど、周りの人たちがダメだって言うから。見ない方がいいって。だから亡くなった自分の子どもの顔も見ていないの。悲しいな。なんでだろう。仕方ないんだってそう自分に言い聞かせてるんだけど。旦那さんにも親にもそんな話はできないよね。自分が悪いんだから。」そう言って泣いておられたのを思い出します。
今思えば、何の関係もない学生にだから、そんな話ができたのでしょうね。
今でもそんな考えを持つ方がおられます。見ない方がいいといって、亡くなった子どもの顔を知ることも出来ない方がいます。
悲しみに蓋をすることが、悲しみを早く忘れることが出来ると考える人がいます。生まれたばかりの子どもだから、あるいは生まれる前の子どもだったから、直ぐに忘れた方がいい、直ぐに忘れられるという人がいます。
しかし、母親のお腹の中に生命が誕生した日から、母と子の絆は臍帯という血管で繋がれます。少しずつ大きくなっていく我が子を慈しみながら、母性が芽生えます。そうして少しずつ母子の絆は深まっていくのです。しかしその途中で子どもを亡くされた方は、お腹の中にもういない我が子への喪失悲嘆に襲われることになります。
大切な我が子を亡くした悲しみは、流産であっても、死産であっても変わることはありませんね。
やはり、同じ思いの方々と悲しみを共有し、心を軽くしていく必要があります。
特に流産や死産を経験された方は、自分を責める傾向が強くなると私は考えています。ご自分を責め続けるのではなく、生まれてこれなかった、或いは育つことができなかった赤ちゃんの話をすることで、自分自身をその苦しみから解放していく必要があります。
誰かにその悲しみを話すこと、誰かとその悲しみを共有するということは、そんな力があるのです。
つくば国際大学 塙恵子