皆さま こんにちは。
今年ももうあとわずになりましたが、何かと気忙しい年末ですね。
大学ももう冬休みに入り、学生の影も見えません。
今年もあっという間に過ぎてしまったように感じていますが、皆さまはどうだったでしょうか?
時間の流れは、年齢によってその感じ方が違うと言われています。子どもの頃は、「今」が最も長く感じ、この時が永遠に続くように感じます。自分が大人になることなど考えも及ばないのですね。しかし、高齢になればなるほどその時間は短く感じます。
人生の先が見えてくるからなのでしょうか。
ハイデガーという哲学者の「時間と存在」という理論がありますが、非常に難解で難しいとされている理論でもあります。
もしお正月休みに時間がある方は、一読されると良い暇つぶしになるかもしれません。
その方がこんなことを言っています。「人間の存在する意味は、現存在のみにある。」というのです。
つまり、今そこに実在している現存在だけが、人間が存在している(生きている)意味なのだといっているのだと思うのです。
人が存在する意味は、すなわち人が生きる意味でもあります。
人は、生きる意味を捜し求めて様々な理由を考えます。人が生きている意味はこうあるべきだというレッテルを張る人もいるでしょう。ある人は「幸せになるため」と言います。ある人は「何かを成し遂げるため」またある人は「世のため、人のため」と言います。そして「世のためにならない人は生きる意味がない」と言う人もいます。
「世のためにならない人は、生きる意味がない」こう言った考えは優生思想とも呼ばれています。かつて胎児期で異常が見つかった胎児は優生保護法という法律で処理された時代がありました。その法律は極最近まで適応されていたのです。
最近では、記憶に新しい相模原の障害児施設での大量殺人事件はこう言った優生思想が背景にあったと言われています。
生きる意味を問うとき、私達は何のために生きているのかを問うのではなく、人が存在する意味を考えなければなりません。
どのような人生であれ、今ここに存在していることこそが生きているという意味なのです。息をして今生きているいという事実だけが、人がこの世に存在してるという意味なのですね。
あるお母様が「生きていたから行けたんだもの(病院に)」と言っておられました。そう生きていたからこそどんなこともいとわず、子どもの傍で最期を看取れたのでしょう。
亡くなった子ども達は、生きていた存在からまた新たな存在へと変化してくると言われています。
それは、今自分が存在している時間の感覚ではない、亡くなった子どもが生きていた時の中で、生きている自分達だけがいないという不思議な感覚なのですね。
亡くなった子ども達は、私達の「心」という永遠に歳をとることがない時間と空間の中で、永遠にいき続けるのかもしれません。
今年1年間、皆さまのご協力でこのSanaの会も無事行うことができました。心から感謝申し上げます。
来年もどうぞ宜しくお願い致します。皆さまにとって良い1年となりますように、心よりお祈り申し上げます。
つくば国際大学 塙恵子