平安な死

皆さまこんにちは。

台風が去ってまた暑い日が続いていますが、皆さま体調はどうでしょうか?

私は少し夏バテ気味ですが、何とかこの夏を乗り切りたいと思います。

次回のSanaの会は、私の通う大学で開催したいと思います。9月は丁度学生が夏休みですので学生も教員も少ない時期です。

共有スペースという、しいて言えばフードコート(食事の提供はありませんが)の小さいバージョンの様な場所になります。

さて今回は、寺本松野「そのときそばにいて」という本をご紹介したいと思います。この寺本さんは、シスターで看護師さんでもあります。多くの患者さんを看取った体験談を書いた本になります。

この本の中で寺本さんは、亡くなっていく患者さんの多くは「最初は自分の死を、まるで他人事のように感じている。」と述べています。まるで他の人が死の宣告を受けたようだというのです。全く自分に実感がない。別のベッドに寝ている人の事のように感じるというのです。しかもその人をお気の毒にさえ感じていると。しかしその後少しずつ現実に引き寄せられるといいます。「自分はどうのようにして死んでいくのだろう?」と考えるのだと。そして受容と否認がはじまると書かれています。これは愛する人と死別した家族も同様の経過を辿ると私は考えています。治らない病気や死を宣告された人とその家族は、一心同体の心理状況に陥るように思うのです。それはその人の死後もなお、受容と否認を繰り返す心理状態が続いていくと私は捉えています。残された家族はその状態が何年も続いていくように感じています。

亡くなっていく人の最大の悲しみは、死によって起こる愛してやまない家族との別離だと言います。もう会えなくなること、それがとてもつらい現実なのでしょう。ある人は死期が近づいた頃に、母親に「自分が死んだら自分の骨の一片をずっと持っていてほしい」とお願いしたそうです。母親は「ああ、いいよ。いいよ。ちゃんと腰に下げていつも一緒にいるからね。」と答えたそうです。その時その方は、やっと愛する母親との死別の悲しみから解放されたと書かれています。そして、残していかなければならない愛する人のことを考えるのだそうです。自分がいなくなっても悲しまないように考えるのだそうです。せめて残された人は悲しみがないように、幸せに生きてほしい、そう願うのでしょう。それは自分が骨になってからでも母親と一緒にいられるという安心感が、残していく人に対して心配りをするようになるのですね。そうして「お前が死んでも私は大丈夫だよ。ずっと一緒にいるからね。」という答えを得た時、初めてその人の死は、平安な死となるのだと思うのです。

                                    つくば国際大学 塙恵子