皆さまこんにちは。
台風の影響でじめじめした日が続いておりますが、如何お過ごしでしょうか。
まだまだ暑い日が続きそうですね。
次回の開催はようやく大学側の許可が下りたので、つくば国際大学第2キャンパスの近くのある交流センターでの開催が決まりました。大学に許可を取るためには、許可書を様々なところに通して決済を受けなければなりません。安易に考えていた私は少し反省しております。
本学は、つくば国際大学(第1キャンパス)と、つくば国際大学第2キャンパスの2つのキャンパスに分かれています。
私が所属する看護学科は、つくば国際大学第2キャンパスにあります。
交流センターは本学の学生が学食をとる場所になりますが、現在はコロナのため学食が中止されています。
交流センター内に研修室がありますので、そこで開催したいと思います。
本学より歩いて数分の場所にあるので、当日ご案内いたします。
今後ご参加される方で、土浦市の方が近い方が多い場合は、本学の交流センターを利用して開催したいと思います。
しかしながら、本学を利用する場合は平日になりますので、お仕事をされておられる方にはご無理を申し上げることになるかもしれません。無理のないようにご参加頂けるますようお願い致します。
さて、今回は本当の自分について書いていこうと思います。前回に引き続きジークムント・フロイトの話です。
フロイトは、人間は無意識領域に本来の人間の欲求があると考えました。その欲求を押さえているのが理性であると。
理性によって抑えられている欲求は、無意識の中で夢として現れるといいます。皆さんは人間の欲求について考えたことはあるでしょうか。仏教の世界では、百八つの煩悩(俗世の欲)があると言います。その欲が消えることが「無」であるといいます。
しかし、功徳を積んだ高僧でさえ本当の「無」を感じることはあるのだろうかと私は考えるのです。
フロイトは人間の核にある欲求は、決して消えることのない欲求であるといいます。ただ理性で押さえているだけであると。
であるならば、本当の自分はどこにいるのだろうと、ふと考えることがあります。
私たちの生活は、様々なしがらみにの中にあります。親子の関係、夫婦の関係、仕事関係、近所との関係、ママ友、パパ友、
友人関係、学校関係、きょうだい、親戚縁者との関係などなど。その関係性によっては、理性が自分を押さえている、そんな感覚はないでしょうか。
子どもを亡くされた方々は、多かれ少なかれ、子どもを亡くした悲しみとそれに附属する様々な人間関係のストレスを感じることがあります。子どもと死別した悲しみが癒えない中で、更なる苦しみに襲われることがあるのです。それが身体と心のバランスを崩す本来の原因となるのですね。理性は時に、悲しみを癒すために邪魔になるものだと私は考えています。
武蔵野大学の小西教授は「ビリーフ」という言葉をこう教えてくれました。ビリーフは「こうあるべきもの」だと。
母親としてこうあるべき、父親はこうあるべき、家族の中ではこうあるべき、優しい人はこうあるべき、人はこうあるべきなどなど。いかがでしょうか。無理をしてそんな風に自分自身を行動させていることはないでしょうか?または、考えなくともいつの間にかそう振る舞っている自分はいませんか?無理が重なれば身体と心が悲鳴をあげます。そんな時は、少し「こうあるべきもの」をお休みしては如何でしょうか。本当の自分をさらけ出して「格好の悪い自分」になっても良いではありませんか。
せめて、子どもを亡くされた後しばらくの間は、自分に正直に、時にわがままになっても罰は当たらないと思うのです。
大声で泣いてわめいて、すっきりするならそれもいい。怒って怒鳴って、すっきりするならそれも有りです。
嫌な自分でもいいじゃないですか。だめな自分も大歓迎です。私はそう思うのです。
つくば国際大学 塙恵子