生きる権利と尊厳死

 皆さま、こんにちは。

茨城県も梅雨に入り、庭の紫陽花が元気に咲いております。

私が通う大学では、4年生恒例の病院実習が始まり何かと忙しい毎日を送っております。

さて今日は、私事で大変恐縮ですが叔父の話をしたいと思います。

私の叔父は85歳で長年の喫煙のせいか、肺がぼろぼろの状態で在宅酸素を余儀なくされておりました。

ある日脳梗塞で倒れ、救急指定病院へ搬送されました。高齢であることや肺が元々良くない状態であることで、延命処置をどうするか叔母が判断を迫られました。一般的に高齢の方の場合、ご家族の意向や本人の意思の確認などを行ったうえで延命処置を行うことが多いと思います。この場合高齢を考慮して延命処置を行わないでほしいというご家族の見解は、決して珍しいものではないと感じております。叔父の場合も倒れる前は、延命処置を希望しないと常日頃叔母に話をしていたようでした。しかし叔母は、延命を希望し叔父は延命処置を施されました。当初叔母は、叔父が回復することに必死の様子でしたが日が経つにつれて「もういいかな。もうあきらめた。」などと話す様になりました。叔母は毎日病院へ面会に訪れ、叔父が「生きたい。」と言っているようだと言います。

叔父夫婦には子供がなく、夫婦2人きりで肩を寄せ合うように生きてきました。その叔父が居なくなるかと考えると居ても立ってもいられない状態だったのだと思います。叔母は叔父を助けることに懸命で、医療者の方々にも随分と失礼なもの言いをしていたのだと思います。

 命の長さは誰にも分からないものです。叔母にも私達にも、医療者にも、本人にも分からないことなのです。ただ、残された者にとっては、精一杯看取れたという思い、亡くなっていく人が精一杯生きたという思いが必要なのだと思うのです。

人は生きる権利があると同時に、人として尊厳ある死を選ぶ権利もあるのだと私は思います。「尊厳死」この重い言葉を、私達医療者は十分に議論し考えていかなければならない、そんな役割も担っているのだと思うのです。最後の瞬間を決めるのは、最終的に家族にゆだねられることになります。その一方でゆだねられた家族はその瞬間を決めてしまったという十字架を背負っていくことになるのです。長年培ってきた家族の絆、そして愛情、その縁を断つことはつらい選択であることを医療者は十分理解すべきであると思うのです。         

                                     つくば国際大学  塙恵子