死の思想

皆さん、こんにちは。

お盆休みの真っ最中ですが、酷暑やら台風やらで大変な季節となっていますね。

夏風邪が流行しているこの頃ですので、体調管理には十分注意して参りましょう。

実は私も夏風邪をこじらせて3週間大変な思いを致しました。今年の風邪は長引くようです。

さて今回はお盆と言うこともあり、吉原浩人という方の著書「東洋の死の思想」の中から書いていきたいと思います。

この本は、私が大学院のころに読んだ本になります。

人間にとって死とはなんぞや?生きる意味とは?この疑問符は太古の昔から人間が取り組むいわば宿題の様なものです。

様々な学者や宗教家が様々な考えのもと導き出そうしている難問でもあります。しかし未だ確実な答えは出されていない様に感じています。

仏教では、人間は生まれ落ちた時から死に向かって生きていると言います。キリスト教では、アダムとエバが禁断の果実を食べてから永遠の命は失われたと言います。楽園を追われた瞬間から死へのカウントダウンが始まったのですね。そして聖書では、羞恥心と肉体的欲望という永遠の苦痛を与えられたとしています。この肉体的欲望無くして人間は産まれない、これが神との違いであり人間たる由縁であるとしているのです。イエス・キリストは処女であるアベ・マリアから生まれたため人間ではないのですね。

宗教画で描く神々の殆どは裸体でかかれています。神々にはこの苦痛が無いことを表現しているのですね。

キリスト教の最大にして大いなる力の源は「自己犠牲」であるとされています。キリストが弟子の罪を許して命を落としたことも「自己犠牲」とされています。このため、敬虔なキリスト教大国であるアメリカでは日本よりも「脳死移植」の理解が進んでいるのです。自分が脳死になった時、他人に自分の命を与えることは「自己犠牲」のなにものでもないという考えです。

では日本ではどうでしょうか?古事記によるとイザナギとイザナミが日本を作り神々を産んだとしています。日本での最初の死はイザナミとされています。そのイザナミはやがて黄泉の国の女王となりますが、イザナギと絶縁する際に、「お前の国の人間を1日1000人絞め殺し、1日1500人の人間を産み与える。」と宣言するのです。恐ろしい女神ですね。ですがよく考えれば、毎日500人が増えていくことになります。死してもなお産まれ出でる。そう考えると日本は栄えていくことになるのでしょうが、現在の日本では少し難しいそうですね。

仏教の言葉に「往生」という言葉があります。誰もが聞いたことがある言葉だと思います。この往生は「往きて生まれる」と言う意味があるそうです。極楽浄土を信じる者は、死の先に新たなる生があるということを認識すると言います。そして、これを自覚した者は、現世において安心という心の安定を得て死をいたずらに恐れず、さらにその先にある仏に至る道に希望をもって前向きに生きることができるのだといいます。どのような宗教であっても死の先には生があり、生の先には死がある。そう語っています。そうして私達は輪廻転生を繰り返しているのかも知れません。

                              つくば国際大学 塙恵子