喪失の想い

皆様、こんにちは。

朝夕の寒さが段々と強くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

本日は「ハロウィン」とのことでイラストを入れてみました。明日から11月ですが、昼間は25℃

と夏日が続くそうです。気温の変化に体調が崩れないように体調管理に努めてまいりましょう。

さて、本日は叔母の話をしたいと思います。

以前に書いたことがありますが、危篤状態にあった叔父が天に召され数カ月がたちました。

生前は自由奔放に生きた叔父でしたので、85歳の天寿を全うできたことは幸せだったのだと思います。しかし、一人ぼっちになった叔母にとっては、叔父がいない喪失感は日々増すばかりなのでしょう。叔母は「誰にも会いたくないし、どこにも行きたくない。こたつに入って寝ているのが一番いい。」と話します。

叔父が生きているときは、友人たちと温泉に行ったり、お買い物を楽しんだり、カラオケに汗したりと、多趣味な叔母でしたが

すっかり生活が変わってしまったようです。叔母にとって叔父は、夫であり、時に父親であり、子どもであり、空気の様な存在、 そこに居て当り前な存在だったのだと思うのです。その当り前な生活は永遠に続いていくと信じていた。頭では高齢夫婦の行く末に

不安はあったでしょうが、心の中は若い時のままだったのかもしれませんね。

皆さんは、年々「年を取ったなあ」という自覚はあるでしょうか。私は体力的な衰えは感じますが、気持ちは20代、30代のままのように感じています。精神的に成長していないのでしょうが・・・。叔母は70代ですが私と同じ気持ちなのかもしれません。若い時からの変わらない叔父との日常。毎日繰り返される同じ様な生活。明日も今日と同じ生活があると信じて疑わない。きっと叔母だけでなく誰もがそう信じているのだと思います。しかし、ある日を境にその日常が崩れ去ってしまうのですね。あの日の様な叔父との生活は二度と訪れることがない、叔母の生活は一人きりの生活に切り替わってしまったのですね。叔母はいつまでも過去の日常を振り返り、振り返り、新しい生活を受け入れようとしないのかもしれません。いえ、受け入れたくないのかもしれません。それが幸せであったかどうかは分かりませんが、叔父と過ごした変わらない日常が恋しくてたまらないのだと思うのです。

人は例え高齢者であっても、今までそこにいた大切な人を失ったとき強い喪失悲嘆に襲われます。高齢であればある程、こうした喪失悲嘆から立ち直ることが難しいのではないかと私は考えています。

高齢者にとっての未来は決して輝かしいことばかりではありません。その延長には「近い将来に起こる死」が待っているからです。

誰もがそうではありませんが、強い喪失悲嘆と未来への希望が見いだせない場合、精神的に鬱状態になる可能性が高くなります。

叔母は沢山いる友人たちとも話が合わないと言います。「みんな夫を亡くしていないし、私の気持ちが分からない。みんな幸せそうなのに、どうして私だけ。」と。

大切な人を亡くした時、誰もが同じような言葉を口にします。「どうして私だけ。」

その問いは誰にも分からない問いですが、切なく悲しく響く言葉だと感じています。

人は、大切な人を亡くした時から「その人がいない」日常が始まります。その日常が、いつもの日常に代わるまで悲しみが癒えることはないのかもしれません。

                               つくば国際大学 塙恵子