ケアするということ

  春の足音が近づいているこの頃ですが、皆さんお変わりはないですか?

三寒四温で桜の花は今年はいつ頃咲くのやら。季節がだいぶ早送りになっているように感じるのですが。

今年の夏も極端に暑い夏なのでしょうかね。

さて今回は、ミルトン・メイヤロフのケアの本質という本の中から書いていきたいと思います。

以前にもメイヤロフを引用したことがあるかもしれません。

ケアとは、他者(自分を含め)を援助または支援することです。看護師の仕事はまさに病める人々へのケアになります。

メイヤロフは、他者をケアすることは自己もケアすることになると言っています。他者をケアしながら実は自分もケアされていてそれが自己充足感に繋がっているのだというのです。他者をケアすることで、今まで気づかなかった福祉や社会の問題などを身近なことの様に感じて関心を持つようになると言います。今よりももっと広い視野で様々なことを見るようになるのですね。

死別によって失う大切な人との関係は、生きる希望を失うほどの悲しみと苦痛だと思います。

ある天使ママさんは、子どもを亡くした時子どもの後を追うことを考えたといいます。あるパパさんは、子どもを亡くした時、ふと電車に飛び込むことを考えたといいます。でも、天国にいる我が子に会えないと思って思い留まったと言うのです。

死とは、決して病気や事故だけで起こるのではないのですね。絶望もまた死を引き寄せる要因なのです。

話は少し外れますが、小児の死亡原因は毎年その死因が更新されています。ここ何年も変わらないのは、思春期の子どもの自殺が死因の第1位を占めているという現実です。思春期の多感な子ども達は、絶望と隣り合わせの状態で生きているのかも知れません。思春期に訪れる心理的離乳は、親を遠ざけ友人や他人との生活が大切になる、動物で言うのならばいわゆる巣立ちに似ています。しかし大人への入り口は広い世界への憧れだけではありません。時に自分を深く傷つける刃を自らが受け止めなくてはならないこともあるのです。そんな時、子どもの頃の様に親を頼ることをこの時期の子ども達はためらってしまうのですね。それが彼ら、彼女らを絶望の淵に追い立てるのかもしれません。

話を戻しましょう。子どもと死別したし方々は、鬱的な状態にあると言われています。これと比較して鬱病の人達は、自分に自信がないために鬱的状態に陥ります。例えば、他人より自分が劣っているとか、自分に自信がない、自分は負け犬だ(何年か前に流行った言葉ですが)とか考えます。しかし死別によって引き起こされた鬱的状態はそうではありません。悲しみは深いけれど自分に自信がないわけではない。むしろ死別によって引き起こされた鬱的状態は、自責の念が強く関係していると私は考えています。亡くなった子どもに対して何もできなかった自分の無力さと子どもに対する罪悪感という感情が大きいのだと思うのです。Sanaの会は延べ20人以上の方々にご参加を頂いていますが、皆さん同じように子どもへの罪悪感を抱えて生きています。「あの子はあんなに苦しんで亡くなってしまったのに、あの時何もしてあげることができなかったのに、自分だけが幸せになっていいのだろうか。楽しんでいいのだろうか。」そう考えてしまうのです。しかし誰もが等しく感じる罪悪感は、本当に罪深いものなのでしょうか。

亡くなっていくその日まで、我が子を慈しみあらゆるケアをし尽くした天使ママさん、パパさんは、実は亡くなったお子さんからもケアをしてもらっていたのだと思うのです。今は深い悲しみの中にあっても、いつか「できる限りのことはやったよね。あの子も私達もすごく頑張ったよね。」という自己充足感がきっと訪れます。それが亡くなったお子さんから受けていたケアなのだと思うのです。大切な人を看取る(ケアする)ことで、今まで何の関心もなかった子ども達の問題や福祉、社会的な問題を身近に感じるようになるのかもしれません。そうして社会貢献活動をされている方も大勢おります。その活動が新たな生きる支えになることもあるのです。

いつの日か天国の我が子にどんな風に生きてきたのか、どんなに人生が素晴らしかったか、どんなに楽しい人生であったかを胸を張って聞かせてあげなくてはならないのだと思うのです。次にこの世に産まれてくるときは、そんな楽しくて素晴らしい人生を歩んでほしいと語ってあげることが、親としての最後の務めなのだと思うのです。もし自分が許せないほどの罪悪感に苛まれている方がおられるのだとすれば、それが亡くなった我が子に対する贖罪なのではないでしょうか。

                                      つくば国際大学 塙恵子