天国へ召される子どもたち

猛暑が続いていますが、みな様お変わりはないでしょうか。

大学は今夏休み期間中で、学生が一番羽を伸ばしているころだと思います。

暦の上では立秋で、秋の入り口に来ましたがとてもこの暑さでは、秋を連想することが難しいですね。

みな様、お身体には十分にお気をつけください。

本日は「Sanaの会」開始予定でしたが、台風の影響で延期といたしました。茨城県にはさほど影響はなさそうですが、天気と地震は予期できないことがおこるので、やむなく延期といたしました。

さて、今日は武田安男さんの「いのちのケア」という本をご紹介したいと思います。

この本は、様々な理由でお子様を天国へお見送りされた方々の思いを綴った本になります。

以前にも書いたかもしれません。

その中にこんな文章があります。

「私は重症脳性麻痺といくつかの障害を併せて持っています。弱視でよく目が見えません。・・・起床から就寝まで、そして寝ている間も誰かに見守ってもらいながら生きています。中略。やっと近づいてくれた人がかける言葉、かかわり、心、愛情、それを感じ取ろうと全神経を集中しました。すると人には色々なタイプがあることが分かりました。

表情と心が違う人、いつも何かに怒っている人、とても疲れている人、いやいや仕事をしている人、自分の気持ちを私にぶつける人。中にはいつでも穏やかな人、私を大切にあつかってくれる人、私の返事を読み取ろうとしてくれる人、心があたたかくなる人もいました。受け身で生きていた長い間、前者と関われば私はモノになり、後者と関われば人間になれました。中略。小学校卒業前に状態が非常に悪くなり、皆がお別れを言いに来ました。母がうちの子に産まれてくれてありがとう、と言ったときは、勝手にさよならなんて言わないで、終わりにしないで!と心の中で叫んでいました。中略。私は双子の妹です。姉は死に私は生きています。命も病気も不平等です。病気を憎しみ障害を恨んだ私は自分が嫌いでなかなか認めることができませんでした。」

この文章を読んで、私はあることに気づかされました。死にゆく子ども達の本当の声を聴いたことがあるかという想いです。子どもの場合、特に幼い子ども達は自分の意思表示ができないことがあります。言葉で伝えられない想い。その気持ちをどれほど理解していたのかと考えさせられました。私達医療者は、時にこのように意思表示ができない子たちを人として見ているのだろうか。ともすれば、モノとして見てはいないか、今一度考える必要があると思うのです。人は誰しも感情があります。様々なしがらみの中で生きています。例え医療者であっても、私的な事でトラブルを抱えているかもしれない、悲しみや苦しみを抱えて患者さんと向き合わなければならない、そんな方も少なくないでしょう。それは傍にいる家族もまたしかりなのです。子どもの死を宣告された家族は、感情のバランスを保つことが非常に難しく、その気持ちのまま我が子に接する辛さは想像するに余りあります。しかし、この文章を書いた方の様に、亡くなっていく子ども達にも様々な気持ちの変化があるのですね。その気持ちを私たちは、私たちの都合のいいように解釈してはいないか、今一度問いただす必要があるのかもしれません。短い命で天に召される子ども達は、残された家族が思うほど悲しく辛い気持ちのまま、神様のもとに旅立ったのではないと思うのです。

最後にこの方はこう書いています。

「一人では何もできない私でも、毎日こうして生きていることの価値を見つけました。・・・・どんなに障害が重くても時間が短くても自分の命を大切にしたいと思えるようになりました。」

たとえ短い命であっても、たとえ幼く言葉にできない子ども達であっても、天国に召されるその時までに、もしかしたらこんな風に気持ちに変化が起きていたのかもしれないと思うのです。

                               つくば国際大学 塙 恵子